本屋大賞はとってない

本屋大賞はとっていません

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その8)

「四谷でーすか」です。

この講義、一部の方から「ナンセンスなこじつけだ」と批判されています。

しかし、今日の話を聞けば、僕の解釈が、いかにナイスなセンスだったか、否が応でも認めざるを得なくなると思います。

読み進めましょう。

 

 

 良平は少時しばらく無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐ふところの菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側みちばたへ抛ほり出すついでに、板草履いたぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙はるかに軽くなった。

 

 

僕は前回、「(駄菓子を包んでいた)新聞紙」には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というキリストの言葉が書いてあったと断言しました。

この言葉によって良平は、汚らわしい悪魔であるところの若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをするという崇高な行動をとることができたわけですが、その聖なる新聞を邪魔だといってさっさと抛ほり出してしまった。

 

ロクでもないガキだ!

 

というのが、いままでのぼんくら学者の定説でした。

しかしそれは浅はかな考え方です。

芥川は、「新聞紙=菓子包み」とは一言も述べていないのです。

チューインガムを例にとりましょう。

①外装→②銀紙を包む紙→③ガムを包む銀紙→④ガム

つまり、菓子を包んでいた新聞紙は、論理的には、①でも、②でも、③でもあり得るのです。

そうして、良平が抛ほり出した菓子包みも、論理的には、①でも、②でも、③でもあり得るのです。

つまり、良平が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と書かれた紙を抛ほり出したのか否かは「神=紙」のみぞ知るのです。

 

ということで、僕は菓子包みよりも、「ぞうり」に注目したいと思います。

草履。僕はその方面には疎いのですが、草履とと下駄は同じようなものでしょう。

したがって、

ぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙はるかに軽くなった。

という文章は、「仏に下駄を預けたら、足だけは遙はるかに軽くなった(他力本願)」と読めるんですね。

しかし、一筋縄ではいかない芥川は、ここにもひっかけ問題を埋め込んでいます。

足だけは」。

つまり、他は重いのです。

親鸞的にいえば、良平は完全な他力本願の域には達していないのです。

煩悩が残っている。

「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」なわけです。

 さあ、次はどうなるでしょう?

 

 

①彼は左に海を感じながら、急な坂路さかみちを駈かけ登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪ゆがんで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山ひがねやまの空も、もう火照ほてりが消えかかっていた。良平は、愈いよいよ気が気でなかった。往ゆきと返かえりと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡ぬれ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側みちばたへ脱いで捨てた。
➁蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「③命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷すべってもつまずいても走って行った。

 

 

ついに出ましたね。

①帰りには海が右にみえるか、左にみえるか問題→「その6」を復習してください。

➁「蜜柑は町の花、桜は町の木」的な問題→「その5」を復習してください。

③「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」問題。

 

ここまでくると、読書感想文の次元を超えていますね、

本の選択を間違えたとしか言いようがない。

しかし、ここでくじけてはいけません。

とりあえず、この部分は無視しましょう。

作品もそろそろ終わりです。

いつか必ず、芥川も馬脚を露すはずです。それを捉えればいいのです。

 

来週は私用でお休みをいただきますので、再来週、16日にお会いしましょう。