本屋大賞はとってない

本屋大賞はとっていません

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その5)

「四谷でーすか」です。

『トロッコ』の5回目です。

本日の講義で扱うのは、作品中、最も美しく牧歌的な場面のひとつです。

(最もと言っておきながら、ひとつですと締めるのはズルいですが、塾講師といえども所詮サラリーマンですから、ここのところは、どうか聞き流してください)

僕はこの文章を読むと、いつも宮沢賢治のことが思い浮かびます。

芥川は賢治を読んだことあるのか、興味深いですね。

 

  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑みかんばたけに、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路はくだりになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂いあおりながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織にはらませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。

 

「蜜柑」が目立ちます。

作品の舞台と思われる湯河原町

芥川が滞在したことのある湯河原町

湯河原町は蜜柑の産地で、いまでも蜜柑狩りのできる観光農園があるようです。

だから当然の如く湯河原町の「町の花」は蜜柑だそうです。

ただ、少し気になったのは、湯河原町の「町の木」が桜と椿だということ。

桜と椿を「町の花」にして、蜜柑は「町の果物」にしたほうが自然だったと思いませんか?

ご当地感の強い蜜柑を、全国区の桜や椿と並列にしたのも解せません。

それくらいなら、桜を「町の枝」にしたほうがよかったと思います。

 

話を『トロッコ』に戻しましょう。

芥川は蜜柑という単語を連発しているだけではありません。黄色い実、蜜柑畑の匂い、そして黄色い風。

五感が蜜柑。蜜柑が五感。

こういったダジャレを用いることで、さりげなく良平の幸福感を表現する芥川の技巧は天才的です。

 

で、その良平ですが、

「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」

「押すよりも乗る方がずっと好い」

「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」

なんてカワイイことをいっています。

そうして、このことを、芥川は「当たり前の事」と、それこそ当たり前のように片づけています。

その結果、読者も当たり前だな、と思う。

蜜柑が黄色いのと同じように当たり前だな、と思う。

でも、よく考えてみてください。

このセリフ、大人が同じことをいったら、妙に思わせぶりな感じになってしまうと思いませんか?

第一、前回ご説明したとおり、良平は「二人の悪魔」とトロッコを押しているのです。

誘惑されているのです。

この危機的状況における「当たり前の事」とはなんなのでしょう?

それは偽りの当たり前でしかありません。

「蜜柑は町の花、桜は町の木」的な当たり前です。

しかし、現実においては「蜜柑は果物」なのです。

良平はこれから現実世界における当たり前に直面するでしょう。

 

ただし、未曽有の傑作『トロッコ』はそれだけでは終わりません。

二人の悪魔と一緒にいた時の良平は、偽りの幸福ゆえに「蜜柑は町の花ではなくて、町の果物だ。食べたい」などと現実的なことを考える余裕がなかった。

そうして良平は、厳しい現実に戻った後も、「蜜柑は町の花だけど、現実的には果物だから食べちゃおう」と当たり前に思える。

だから、良平にとって蜜柑は、いついかなる状況においても「町の花だから食べてはいけない存在=禁断の果実」になったことがないのです。

芥川は良平に禁断の果実を食べさせなかった。

僕はその想いに胸を打たれます。

 

というわけで、この部分、読書感想文ではどのように書きましょうか?

僕も芥川と同じく、教え子たちに禁断の果実を食べさせたくありません。

読書感想文では苦い現実に直面する必要はないのです。

僕はトロッコを読んで、お父さんお母さんとジェットコースターに乗った時のことを思い出しました。

これで充分です。