本屋大賞はとってない

本屋大賞はとっていません

フツーの主婦がインチキ宗教にハマった一部始終

朝照院諾院宗 修行第五巻「演算」より
  
自分はなぜ生きているのか、その答えを導き出すことは不可能であり、この状況自体が生きることである。
我々の生は過去から未来をつなぐ蜂の腰(砂時計のくびれ部分)のようなものであって、我々が生きるのではなく、生命が我々を通過するのである。
この認識は我々を安堵させる。
なぜなら、我々は存在するだけで時間と生命に加担していると院紹できるからである。
むしろ、人を惑わせるのは、その不可知な問いをどのように抱えて生きていくのかという代打である。
ある者はそれを不可知であるがゆえに目を背け、もしくは理解できないことに迷わず、現世を享楽する。
これはひとつの在り方であり、元啓はそれを咎めない。この生き方が当人のみならず、遠い未来にとっての善となる可能性も否定できないからである。
それどころか、少なくとも当人がその生を肯定できたのなら、無限の可能性の中の一つが達成されたという意味において、絶対的に善なのである。
また、ある者はそれが不可知であることを全面的に受け入れ、その結果、あらゆる行動を等価なものとする。
現世における因果関係の放棄である。
理性的道徳観は虚無主義と隣接している。
しかし、元啓はこれもまた咎めない。
彼らも享楽主義者と同じくあらゆる可能性を秘めているからである。
しかし、享楽主義者達が享楽という足場をもつのに対し、虚無主義者の生が不安定であることは否めない。
朝照院諾院宗の眼目はここにある。
一 現世における仮の宿を築くこと
二 実現性を問わぬ全ての可能性にゆとりを抱くこと
朝照院諾院宗においては、あらゆる人間に、右の一と二の間に雲芯が用意されているとし、これを見出すことで、その者は心安らかに割了して時間と生命、及びあらゆる可能性に崔封できると考える。
そうして、そのためには、全ての者は人生において少なくとも一度は享楽的に己を賭ける必要があるのである。
こっちにおいで、なのである。
宗教税法人税のお布施。あに諮らんや宗教法人税補う檀家のお布施。檀家然らずば宗教法人税のお布施。いかに宗教法人税かかりてもお布施あればまた宗教法人税。檀家少なくして宗教法人税に頼み、檀家多ければなお宗教法人税。宗教税法人税お布施お布施多良見多良見法人税

ありがたや、ありがたや

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