本屋大賞はとってない

本屋大賞はとっていません

さようなら

思うところあって、本ブログを終了します。

 

『親にでも書ける読書感想文』シリーズが遺作となりました。このシリーズへのアクセス数は桁違いでした。本ブログ最大のヒット作です。

 

その重圧に耐えられなかったから辞めると言いたいところですが無関係です。それどころか未完で終わったところが、シューベルト的でカッコいいと自負しています。

 

無関係に未完成

 

お気付きの方もいらっしゃったかもしれませんが、本ブログでは一度も絵文字、顔文字を使いませんでした。

(笑)すら使わなかったと思います。

誇りに思っています。

 

ご愛読ありがとうございました。

また、本屋で会いましょう😉

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その9)

こんにちは。「四谷でーすか」です。


実は先週、香苗ちゃん他7名とフィールドワークと称して『トロッコ』の舞台、湯河原町に行ってまいりました。


蜜柑、食べてきましたよ!
香苗ちゃん、一気に7房くらい頬張っていて可愛かったです。

 

本題に入りましょう。前回の講義で僕は、『トロッコ』のテーマが次の3点に絞られてきたことを説明しました。

 

① 帰りには海が右にみえるか左にみえるか(海の見える「方向」の問題)

(菓子を包んでいた新聞に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というキリストの言葉が書かれていたかという問題と直結)

 

② 「蜜柑は町の花、桜は町の木」なのか「蜜柑は果物」なのか

 

③ 「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」

 

で、湯河原町の旅館で、香苗ちゃん他7名とビールを飲んでいたら、香苗ちゃんが突然、「芥川には『蜜柑』という作品がある」と言い出したんですね。
もちろん、僕はそのこと知っていたけど、知らないふりして、「君は一生、研究室にいなさい!」って叫んじゃいました。

 

今日は話が脱線しがちですね。
しかし、「脱線こそが人生」なんです。
太宰治は「さよならだけが人生だ」なんて馬鹿なことを言っていましたが、それなら僕と香苗ちゃんの仲はどうなるのですか?

 

というわけで、今回は『トロッコ』の話はやめて、『蜜柑』の話をしたいと思います。

 

読書感想文では、作者の別の作品に言及すると得点になります。

 

しかも、『蜜柑』と『トロッコ」には、表裏一体といっていいほどの関連性があるのです。


早く香苗ちゃんとお茶したいので、駆け足で『蜜柑』のあらすじをご紹介しましょう。

 

いや、それすら面倒くさいので、全文、青空文庫からコピペしましょう。

 

上記の3点と特に関係のある個所については同じ色をつけてみました。

 

今まで講義を聴いてきた皆さんは驚愕すると思いますよ。

 

『蜜柑』

或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車(注:「方向」について書いてある)の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗のぞくと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻をりに入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘まま、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた。
 が、やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛くつろぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和ひより下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵ののしる声と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌あわただしく中へはいつて来た、と同時に一つづしりと揺れて、徐おもむろに汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽――さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸やうやくほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶ものうい睚まぶたをあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥いちべつした。
 それは油気のない髪をひつつめの銀杏返いてふがへしに結つて、横なでの痕のある皸ひびだらけの両頬を気持の悪い程赤く火照ほてらせた、如何にも田舎者ゐなかものらしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色もえぎいろの毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符0が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁わきまへない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポツケツトの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に変つて、刷すりの悪い何欄かの活字が意外な位鮮あざやかに私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道トンネルの最初のそれへはいつたのである。
 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂欝を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、涜職とくしよく事件、死亡広告――私は隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆ほとんど機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰あたかも卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛はふり出すと、又窓枠に頭を靠もたせながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
 それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅おびやかされたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時いつの間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻しきりに窓を開けようとしてゐる。(注:「方向」のことが書かれている)が、重い硝子戸ガラスどは中々思ふやうにあがらないらしい。あの皸ひびだらけの頬は愈いよいよ赤くなつて、時々鼻洟はなをすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹ひくに足るものには相違なかつた。しかし汽車が今将まさに隧道トンネルの口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点がてんの行く事であつた。(注:「方向」のことが書かれている)にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡もたげようとして悪戦苦闘する容子ようすを、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤すすを溶したやうなどす黒い空気が、俄にはかに息苦しい煙になつて、濛々もうもうと車内へ漲みなぎり出した。元来咽喉のどを害してゐた私は、手巾ハンケチを顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆ほとんど息もつけない程咳せきこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色けしきも見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返いてふがへしの鬢びんの毛を戦そよがせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙ばいえんと電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷ひややかに流れこんで来なかつたなら、漸やうやく咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。

 しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道トンネルを辷すべりぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒いちりうのうす白い旗が懶ものうげに暮色を揺ゆすつてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索せうさくとした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃そろつて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反そらせて、何とも意味の分らない喊声かんせいを一生懸命に迸ほとばしらせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑みかんが凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴おもむかうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆いくくわの蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

 暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮あざやかな蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬またたく暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体えたいの知れない朗ほがらかな心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変あひかはらず皸ひびだらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。…………
 私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。


以上です。

 

『蜜柑』は大正8年。『トロッコ』は大正11年。芥川の自死が昭和2年。


大正と昭和の関係はよくわかりませんが、『蜜柑』の3年後に『トロッコ』が書かれたことは事実です。

 

香苗ちゃんをこれ以上待たせるわけにはいきません。

 

とりあえず、読書感想文では、次のように書いておいてください。

 

『トロッコ』の3年前に書かれた『蜜柑』には、すでに蜜柑のことが書かれていました。


また来週。

 

 

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その8)

「四谷でーすか」です。

この講義、一部の方から「ナンセンスなこじつけだ」と批判されています。

しかし、今日の話を聞けば、僕の解釈が、いかにナイスなセンスだったか、否が応でも認めざるを得なくなると思います。

読み進めましょう。

 

 

 良平は少時しばらく無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐ふところの菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側みちばたへ抛ほり出すついでに、板草履いたぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙はるかに軽くなった。

 

 

僕は前回、「(駄菓子を包んでいた)新聞紙」には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というキリストの言葉が書いてあったと断言しました。

この言葉によって良平は、汚らわしい悪魔であるところの若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをするという崇高な行動をとることができたわけですが、その聖なる新聞を邪魔だといってさっさと抛ほり出してしまった。

 

ロクでもないガキだ!

 

というのが、いままでのぼんくら学者の定説でした。

しかしそれは浅はかな考え方です。

芥川は、「新聞紙=菓子包み」とは一言も述べていないのです。

チューインガムを例にとりましょう。

①外装→②銀紙を包む紙→③ガムを包む銀紙→④ガム

つまり、菓子を包んでいた新聞紙は、論理的には、①でも、②でも、③でもあり得るのです。

そうして、良平が抛ほり出した菓子包みも、論理的には、①でも、②でも、③でもあり得るのです。

つまり、良平が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と書かれた紙を抛ほり出したのか否かは「神=紙」のみぞ知るのです。

 

ということで、僕は菓子包みよりも、「ぞうり」に注目したいと思います。

草履。僕はその方面には疎いのですが、草履とと下駄は同じようなものでしょう。

したがって、

ぞうりも其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋たびの裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙はるかに軽くなった。

という文章は、「仏に下駄を預けたら、足だけは遙はるかに軽くなった(他力本願)」と読めるんですね。

しかし、一筋縄ではいかない芥川は、ここにもひっかけ問題を埋め込んでいます。

足だけは」。

つまり、他は重いのです。

親鸞的にいえば、良平は完全な他力本願の域には達していないのです。

煩悩が残っている。

「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」なわけです。

 さあ、次はどうなるでしょう?

 

 

①彼は左に海を感じながら、急な坂路さかみちを駈かけ登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪ゆがんで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山ひがねやまの空も、もう火照ほてりが消えかかっていた。良平は、愈いよいよ気が気でなかった。往ゆきと返かえりと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡ぬれ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側みちばたへ脱いで捨てた。
➁蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「③命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷すべってもつまずいても走って行った。

 

 

ついに出ましたね。

①帰りには海が右にみえるか、左にみえるか問題→「その6」を復習してください。

➁「蜜柑は町の花、桜は町の木」的な問題→「その5」を復習してください。

③「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」問題。

 

ここまでくると、読書感想文の次元を超えていますね、

本の選択を間違えたとしか言いようがない。

しかし、ここでくじけてはいけません。

とりあえず、この部分は無視しましょう。

作品もそろそろ終わりです。

いつか必ず、芥川も馬脚を露すはずです。それを捉えればいいのです。

 

来週は私用でお休みをいただきますので、再来週、16日にお会いしましょう。

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その7)

「四谷でーすか」です。

最初に断っておきます。

今回の講義は極めて下品な内容になります。

でも、避けては通れません。

僕ではなくて、芥川が下品なんです。

あれ、下品と言ったとたんに居眠りから覚めた人がいますね。
授業が終わったら職員室に来なさい。

 

さて、下品になる前に、『トロッコ』の構造を再確認してみましょう。

1 良平が「背の高い土工=キリスト」に叱られる(「その3」参照)。

2 良平が「二人の土工=二人の悪魔」に誘惑される。

3 良平が「二人の土工=二人の悪魔」に見捨てられる。

4 来週のお楽しみ。

 

今回は「3」です。

前述のとおり目を覆いたくなるほど下品ですが、「4」で名誉挽回されるので、ここではじっと耐えましょう。

 

その次に車の止まったのは、切崩きりくずした山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児ちのみごをおぶったかみさんを相手に悠悠ゆうゆうと茶などを飲み始めた。良平はひとりいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈がんじょうな車台の板に、ねかえった泥かわいていた。

 少時しばらくのち茶店を出て来しなに、巻煙草を耳にはさんだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有ありがとう」と云った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心はほかの事を考えていた。
 その坂を向うへり切ると、又同じような茶店があった。土工たちその中へはいったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪をって見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木まくらぎに手をかけながら、無造作むぞうさに彼にこう云った。
われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから
「あんまり帰りが遅くなるとわれのうちでも心配するずら」
 良平は一瞬間呆気あっけにとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日のみちはその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをすると、どんどん線路伝いに走り出した。

 

御承知のとおり、「茶店」には休憩所という意味のほかに、「色茶屋」という意味があります。

そして、若い二人の土工は「茶屋」に目がない。

彼らは短期間のうちに2軒の「茶屋」に寄った。

いわゆる2連発です。

参ったな。下品すぎますね。でも仕方がない。悪魔だから。

で、そのあげくに必殺のわれはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだからが出てくる。

3連発宣言です。

参ったな。

それにしても、芥川はなぜここで、『トロッコ』をこんなに下品な代物にしてしまったのでしょう?

恐らく、悪魔から突き放されるという残酷さを、より身も蓋もなく、描きたかったのでしょう。

しかし、僕はここに注目します。

新聞紙に包んだ駄菓子

新聞というからには、なにかが書いてあったに違いありません。

僕はこの新聞紙に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というキリストの言葉が書いてあったと確信しています。

これを読むことによって、良平は、

ほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。

という心境に至るのです。

そうして、

若い二人の土工に、取って附けたような御時宜おじぎをするのです。

僕はこの「取って附けたような御時宜」という箇所を読むといつも目頭が熱くなります。

 亮平はここで、懸命に「どんなことにも感謝」したのです。

悪魔の三連発に「取って附けたような御辞儀」をしたのです。

 良平はこれから自分を叱ってくれた「背の高い土工=キリスト」のもとに駆けつけるでしょう。

叱るもいうかたちであれ、自分に関心を抱いてくれたキリストに許しを乞いに行くでしょう

 

というわけで、トロッコ、次第にヘヴィーな様相を呈してきましたね。

しかし、話はまだ終わりません。

「悪魔に突き放された」=「恩赦」といえるのか?

この問いこそが『トロッコ』の核心なのです。

そして、この問いは、帰り道に海は右に見えるのか、左に見えるのか?という問題に直結します。

 

さて、読書感想文の方はどうしましょうか?

読書感想文に性的な表現がご法度だってことは、トランプ大統領だって知っています。

僕ならこう書きます。

若い二人の土工、もっと優しい人たちだと思っていましたが、お茶ばかり飲んで、おじいさんみたいだった。

では、また来週、お会いしましょう。 

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その6)

「四谷でーすか」です。

『トロッコ』もいよいよ佳境です。

起承転結でいう「転」。 

作者の言葉づかいがささくれ立ってきたことに留意してください。

竹藪、雑木林、爪先上り、赤錆、高い崖、枝。。

牧歌的な時代は終わりました。

 

竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをめた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先つまさき上りの所々には、赤錆あかさびの線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
 三人は又トロッコへ乗った。車は海をにしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればい」――彼はそう念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論もちろん彼にもわかり切っていた。

 

この場面には、読書感想文を書く上で極めて重要なポイントが2つあります。

 

 車は海をにしながら、雑木の枝の下を走って行った。

ここでいう海とは太平洋です。

そうして、海が右に見えるということは、いまトロッコは「上り」、東京方面に向かっているということです。

ここで私達は採点者からあることを求められています。

それは、「芥川がもし、うっかり、帰りのシーンでも『海は右にあった』と書いたら大笑いしてやろう」という気骨です。

だから感想文ではこのように書いておいてください。

往きは右なら、帰りは左だと僕は思います。

 

 面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれればい」彼はそう念じて見た。

この「も」も考察に値します。

良平はなにか他の事念じていた。

良平が念じていた他のこととはなんでしょう?

もう一度、昔みたいに面白い気持ちになりたい、よりを戻したい、みたいなことを念じていたのでしょうか?

それではただの演歌です。

読書感想文に演歌的な要素は含まれるべきでありません。

僕は次のように解釈します。

良平は、「帰りには海は左にあってほしい」と念じていた、と。

我々はここで戦慄します。

良平の恐怖はもはや「自分が帰れないかも」という次元を超えている。

良平は、二人の悪魔によって、どこを向いても海また海という異界に連れていかれたのではと恐怖を感じているのです。

しかし、この解釈はあまりにもハイレベルですね。

先生だって理解できないかもしれません。

といいつつ、なにも触れないのは悔しいから、地球は丸い、とだけ書いておきましょう。

読書感想文では、一個所くらい「減点になってもいいや」といった気骨をみせるべきでなのです。

往きは右なら、帰りは左だと僕は思います。地球は丸い。

いかがですか?

採点者が怪訝な顔をして減点している様子が目に見えますね。

ではまた来週。

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その5)

「四谷でーすか」です。

『トロッコ』の5回目です。

本日の講義で扱うのは、作品中、最も美しく牧歌的な場面のひとつです。

(最もと言っておきながら、ひとつですと締めるのはズルいですが、塾講師といえども所詮サラリーマンですから、ここのところは、どうか聞き流してください)

僕はこの文章を読むと、いつも宮沢賢治のことが思い浮かびます。

芥川は賢治を読んだことあるのか、興味深いですね。

 

  五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑みかんばたけに、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路はくだりになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂いあおりながら、ひたすべりに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織にはらませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。

 

「蜜柑」が目立ちます。

作品の舞台と思われる湯河原町

芥川が滞在したことのある湯河原町

湯河原町は蜜柑の産地で、いまでも蜜柑狩りのできる観光農園があるようです。

だから当然の如く湯河原町の「町の花」は蜜柑だそうです。

ただ、少し気になったのは、湯河原町の「町の木」が桜と椿だということ。

桜と椿を「町の花」にして、蜜柑は「町の果物」にしたほうが自然だったと思いませんか?

ご当地感の強い蜜柑を、全国区の桜や椿と並列にしたのも解せません。

それくらいなら、桜を「町の枝」にしたほうがよかったと思います。

 

話を『トロッコ』に戻しましょう。

芥川は蜜柑という単語を連発しているだけではありません。黄色い実、蜜柑畑の匂い、そして黄色い風。

五感が蜜柑。蜜柑が五感。

こういったダジャレを用いることで、さりげなく良平の幸福感を表現する芥川の技巧は天才的です。

 

で、その良平ですが、

「登りみちの方が好い、何時いつまでも押させてくれるから」

「押すよりも乗る方がずっと好い」

「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」

なんてカワイイことをいっています。

そうして、このことを、芥川は「当たり前の事」と、それこそ当たり前のように片づけています。

その結果、読者も当たり前だな、と思う。

蜜柑が黄色いのと同じように当たり前だな、と思う。

でも、よく考えてみてください。

このセリフ、大人が同じことをいったら、妙に思わせぶりな感じになってしまうと思いませんか?

第一、前回ご説明したとおり、良平は「二人の悪魔」とトロッコを押しているのです。

誘惑されているのです。

この危機的状況における「当たり前の事」とはなんなのでしょう?

それは偽りの当たり前でしかありません。

「蜜柑は町の花、桜は町の木」的な当たり前です。

しかし、現実においては「蜜柑は果物」なのです。

良平はこれから現実世界における当たり前に直面するでしょう。

 

ただし、未曽有の傑作『トロッコ』はそれだけでは終わりません。

二人の悪魔と一緒にいた時の良平は、偽りの幸福ゆえに「蜜柑は町の花ではなくて、町の果物だ。食べたい」などと現実的なことを考える余裕がなかった。

そうして良平は、厳しい現実に戻った後も、「蜜柑は町の花だけど、現実的には果物だから食べちゃおう」と当たり前に思える。

だから、良平にとって蜜柑は、いついかなる状況においても「町の花だから食べてはいけない存在=禁断の果実」になったことがないのです。

芥川は良平に禁断の果実を食べさせなかった。

僕はその想いに胸を打たれます。

 

というわけで、この部分、読書感想文ではどのように書きましょうか?

僕も芥川と同じく、教え子たちに禁断の果実を食べさせたくありません。

読書感想文では苦い現実に直面する必要はないのです。

僕はトロッコを読んで、お父さんお母さんとジェットコースターに乗った時のことを思い出しました。

これで充分です。

 

親にでも書ける読書感想文(芥川龍之介編その4)

「四谷でーすか」です。

引き続き『トロッコ』。

ここからが起承転結の「承」です。

 

そののち十日余りたってから、良平は又たった一人、ひる過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコほかに、枕木まくらぎを積んだトロッコが一りょう、これは本線になるはずの、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみやすいような気がした。「この人たちならばしかられない」――彼はそう思いながら、トロッコそばけて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――しまのシャツを着ている男は、俯向うつむきにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中なかなか力があるな」
 の一人、――耳に巻煙草まきたばこはさんだ男も、こう良平をめてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくともい」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、ずこんな事を尋ねて見た。
何時いつまでも押していてい?」
「好いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。

 

皆さんは前回の講義で、「三位一体」と「十字架」→「キリスト」=「古い印袢天しるしばんてんに、季節外れの麦藁帽むぎわらぼうをかぶった、背の高い土工」という芥川の語呂合わせについて勉強しましたよね。

いま思えば、良平は「背の高い土工=キリスト」に叱られるという物凄い体験をしたわけです。

よく生きていられたものです。

そういえば、キリストは大工の息子でしたね。

芥川恐るべしです。

では、ここで登場する「この人たち」「優しい人たち」とは誰か?

おわかりですよね。

悪魔です。

良平は悪魔に誘惑されたのです。

しかし、読書感想文に「誘惑」などという不健全な言葉を用いるべきではありません。

ですから、こんな風に書いてみたらいかがでしょうか?

 僕は良平が二人の若い男に叱られなければいいなと思います。

なお、蛇足になりますが、二人の若い男=二人の悪魔は不気味なくらいに没個性的です。

徹頭徹尾、二人で一組。

優しそうだけど、個々の人間味が感じられません。

叱るキリストと表情のない悪魔。

『トロッコ』の物語はこの緊張関係の中で進んでいきます。

そうして子供は、この緊張関係(なんとなく嫌な感じ)に不思議なくらい敏感です。

だから、次のように書いてもよいかもしれません。

僕は良平が二人の若い男に叱られなければいいなと思いますが、なんとなく嫌な予感がします。

まとめましょう。

子供特有のナイーブさをアピールしていない読書感想文は大人が書いた読書感想文のようなものだ。

では、今日はここまでにします。